しかし、頼久の声は落ち着いていた。
手綱を握っている者に聞く。

「この馬の名前は?」
「陸王にございます。」

頼久は陸王の目をじっと見た。

「陸王。」

低くよく通る声でその名を呼んだ。
興奮状態にあった陸王が、威嚇するように前の両足を上げ、ドカッと踏みならす。

「陸王。」

その威嚇に動じることなく、再び頼久がその名を呼んだ。
陸王が手綱を振りほどこうと、首を振り高くいななく。

「陸王。」

頼久が三度目に名前を呼んだ時、周りの者は目を疑った。
陸王がおとなしくなりしばらく頼久と見つめあったかと思うと、甘えるように鼻を鳴らしその鼻面を頼久に押し付けたのだ。
頼久がその鼻面をなでると、ブルルルと嬉しそうに首を振った。

「いい子だ。私を乗せてくれるか?」

頼久はぽんぽんと陸王をなだめるように叩くと、ヒラリとその背に飛び乗った。
今まで誰もその背に乗せようとしなかった陸王だったが、頼久が乗っても全く嫌がらない。

これまで馬の手綱を持っていた者が驚きに目を瞠る。
右大臣がこの馬を手に入れてからずっと世話をしてきたが、何度も振り払われたり噛み付かれたり。
後ろ足で蹴飛ばされそうになったことも何度もある。
背中に乗るなど、とんでもないことだった。
その暴れ馬が、おとなしく人を乗せている。
この武士、只者ではない、と敵方ながら感心した。

思いがけない展開に、右大臣はぎりぎりと歯軋りをする。

(ふ、ふん。いくらこの場で手なずけても、流鏑馬のような人馬一体の呼吸が必要となることができるはずがないわ。)

それに陸王はこれまで馬場の練習どころか、人を乗せたことすらない。
絶対にうまくいくわけがない。
そう思い、苦々しい思いで見守ることにした。





まずは少納言。
パーン、パーン、パーンと小気味いい音で、的が射抜かれる。
右大臣は満足そうな声を漏らす。

「さすが我が息子。勝利は間違いなさそうだな。」
「さようでございますね。」

傍に仕えていた者も同意する。

次は頼久。
陸王は頼久を背に乗せたまま馬場を駆け始める。
初めて人を乗せたとは思えないほど安定した走り。

絶対にうまくいかない、と思っていた右大臣の予想を裏切り、三つの的は次々と空中に飛んだ。
馬を止めた頼久が、陸王の首をなでた。

「よしよし、すごいな、おまえは。」

陸王も嬉しそうに鼻を鳴らす。
陸王は、完全に頼久を自分の主人と認めたようだった。

右大臣は手にしていた扇をキリキリと握り締める。
このままでは、息子の勝利が危うくなる。

右大臣は、傍にいた者に目配せした。
心得た、とばかりに、その者はそっとその場を離れた。





一騎打ちの二回目。
少納言も頼久も一歩も譲らず、的は全て綺麗に割れた。

「二人とも、すばらしい腕前だな。」

帝が感嘆する。

「・・・頼久さんの方が素敵です。絶対に勝ってくれます。」

ボソッと言ったあかねに、帝はくすくすと笑った。

「本当に神子はあの男が好きなのだね。幸せな男だな。なんだかあの武士がうらやましくなってしまったよ。」
「もうっ、からかわないでください。」

いつもの癖であかねがぺしっと帝を叩く。
あまりの無礼な行いに周りがざわっとしたが、帝は愉快そうに笑っただけだった。

周りの視線に、あかねがまずかったかなと首をすくめたが、帝は気にしないでよいと言い周りを鎮めてくれた。
いい人だなあとあかねは思う。
さすがに今回の流鏑馬で身分を問わないことを認めてくれただけあるなあと、その心の大きさに感心した。





三回目。
少納言の的は全て命中。
光源氏の再来と言われたその腕は、その評判通り生半可ではない。

しかし、頼久もこればかりは譲るわけにもいかない。
陸王と共に、出発位置に付いた。

「はあっ!」

掛け声と共に走り出す。

一つ目の的。
パーン!
小気味よい音を立てて、的が割れる。

二つ目の的。
これも綺麗に命中する。

三本目の矢をつがえ構えた時、馬場横の藪から何かが飛び出してきた。
真っ白なウサギであった。
ウサギは大きな陸王に驚いたのか、馬場の中央で立ちすくんでしまう。

「あっ、ウサギが!! 危ない!!」

あかねが声を上げる。

このままでは踏みつけてしまうと思った頼久は、とっさに、

「陸王! 飛べ!!」

と叫んだ。
飛ぶ訓練などしていないはずの陸王が、頼久の言葉を正しく理解し、ウサギを踏みつけないようにそこでジャンプする。
ジャンプしたところがちょうど三つ目の的の位置であった。
誰もがこれでは無理だ、と思ったが、頼久はそのまま矢を射る。

パーン!!

音も高らかに、的は綺麗に割れていた。
矢を射るということは、手綱から手を離しているということだ。
その状態でジャンプすれば、普通落馬は免れない。
しかし、何事もなかったかのように、陸王は頼久を乗せたまま着地した。

陸王の姿勢がいいのか、頼久の乗馬の技量が並ではないのか、あるいは両方か。
いずれにしても、すごいことではあった。

陸王と頼久が駆け抜けた後、ウサギは無事にどこかへ逃げていった。

大きな歓声と拍手が観客から沸き起こる。
あかねもほっとし、我を忘れて拍手していた。

「・・・あの状態から的を射抜くとは・・・。」

帝が心底感心したように言う。

「武士にしておくにはもったいない男だ。」

あの男ならば、神子が心惹かれるのも無理はない、と帝は思った。





四回目。
まだ負けたわけではないが、少納言の顔色が悪い。
精彩がなく、それまでと違って三つ目の的をはずしてしまった。

頼久。
今やすっかり息のあった陸王とでははずすわけもなく、的は三つとも中心を射抜かれていた。

「勝利者!! 源頼久!!」

高らかに宣言され、太鼓が打ち鳴らされた。
大きな歓声と拍手で、神社の庭は満たされた。





帝から、平伏している頼久に声がかけられる。

「源頼久。」
「は。」
「すばらしい腕だな。」
「恐れ入ります。」

帝からお褒めの言葉を賜り、左大臣も源氏の棟梁も満足げに頼久を見る。
帝は疑問に思ったことを、頼久に投げかけた。

「一つ聞きたい。あのウサギ、そのまま踏み殺しても問題はなかったのではないか? あの馬ならば、ウサギ一匹踏んだとて、びくともしまい。なぜわざわざ危険を冒してまで飛んだのだ?」

頼久は、静かに答える。

「・・・もしウサギが怪我するようなことになれば、神子殿が悲しまれると思ったものですから。」

頼久の答えを聞いたあかねが、びっくりした顔で頼久を見つめた。

「ほう、それでは、全て神子のため、と申すか。」
「さようでございます。」

あの一瞬の間に、そこまで判断して行動したのか。
帝は感心したように唸った。

神子とこの武士は、並々ならぬ絆で結ばれているらしい。
最後まで頼久を信じていた神子。
常に神子のことを第一に考えている頼久。
決して誰もその間を裂くことはできないだろう。
―――――たとえ、帝である自分でも。

「よくやった。神も認めてくださったことだろう。神子を妻とすることを許す。」
「ありがとうございます。」

平伏したまま、頼久が答える。
あかねも帝の横で、心底嬉しそうに笑った。





自分の屋敷に戻った右大臣は、まさに苦虫を噛み潰したような顔をしている。
まだぶつぶつと息子に文句を言っていた。

「全く、もう少しであったのに。存外おまえも頼りにならん。」
「父上。」

少納言が父親を睨みつけた。
父にしかられ、うなだれるかと思った息子に睨まれ、右大臣はますます不機嫌になる。

「なんだ。」
「ウサギを放ったのは、父上の差し金ですね?」
「な、なにを言うのだ。」

ズバリと言われて、右大臣の目が泳いだ。
うろたえる父に、息子が言った。

「私は見たのです。父上の部下がウサギを馬場に放つところを。最初にあの頼久の馬を怪我させたのも父上のたくらんだことなのでしょう? あれが全て白状しましたよ。相手の馬の尻尾を引き抜いて驚かすように言われたと。」

少納言が部屋の隅に平伏していた男に、軽蔑のまなざしを向ける。

「そればかりではない。相手方の馬を早々に帰すように言ったり、あの場に陸王を連れて行ってそれに乗らざるを得ない状況を作ったり。」

少納言はあきれたように言う。

「私は恥ずかしいです。父上がそんなに卑怯な手を使われるなんて。父上が何もなさらず、正々堂々と勝負できていたならば、私は決して負けなかったものを。貴方はご自分の息子を信じておられなかったのですね?」
「い、いや、そうではない。そうではないが。」
「もう結構です。父上とはしばらく口も利きたくありません。」

少納言は足音も高く部屋を出ていった。
残されたのは、うなだれた右大臣。

神子も手に入らず、自慢の息子にも嫌われてしまった。
余計なことをするのではなかったと後悔しても、覆水盆に返らず。

「おまえが少納言に見られるからだ!」

平伏したままの部下に当り散らす右大臣であった。





良き日を選んで、頼久とあかねの婚儀が執り行われた。
貴族の間では、神子が只人の妻となる方がかえって争いにならずによかったかもしれん、と負け惜しみ半分に囁かれていた。

もう二人の間には、なんの障害もない。
幸せそうに見つめあう二人に、周りは当てられっぱなしだった。

「若棟梁。少納言様から祝いの品が届いております。」
「少納言様から?」

頼久とあかねは顔を見合わせる。
少納言といえば、最後まで頼久と流鏑馬を競った相手である。
その相手から祝いの品だとは。

首をかしげながら、何が届いたのか聞いてみたが。

「大きいのでこちらには持って参れないのです。どうか庭までいらしてくださいませんか。」

いぶかしく思いながら、あかねと二人で庭に行ってみる。
そこにいたのは。

「陸王!」

頼久が驚いた声をあげた。
あの時一緒に走った陸王が、少納言からの祝いの品として届けられていたのだ。
頼久の姿を認めるなり、その鼻面を押し付けてくる。

しかし、馬一頭などと、たかだか武士に結婚の祝いとして贈るには高価すぎる。
名馬の血を引く陸王は、右大臣であっても大枚はたいて手に入れたものに違いあるまい。
それに少納言は頼久とは何の関係もないのだ。

「文もいただいております。」

少納言がしたためたらしい文を開いてみると、そこにはこう書いてあった。

頼久の腕にはほとほと感心した。
素直に負けを認める。
この馬は、右大臣家の誰の言うことも聞かないし、こちらにいても何の役にも立たない。
陸王は頼久を唯一の主と思っているらしいから、結婚の祝いとして遠慮なく受け取って欲しい。
最後に、あの時はすまないことをした、許して欲しい、とわびてあった。

「どうして、少納言様が謝るの?」

あかねが不思議そうに言う。
実のところ、頼久には愛馬の怪我の理由、なぜあそこにウサギが飛び込んできたか、という事は薄々わかっていた。
ただ、それを公にする気はなかった。
こうしてあかねを娶ることができた今、もうどうでもいいことなのだ。
余計な揉め事を増やす必要もない。

「さあ、何のことでしょうね。でもせっかくのご厚意ですから、受け取ることにしましょう。」

頼久もとぼけることにした。
あかねは、穏やかに笑っている頼久を不思議に思うばかりであった。

間近に見る大きな綺麗な黒い馬。
あかねはその馬に話しかける。

「陸王っていうの? 頼久さんを助けてくれてありがとう。」
「ブルルルル。」

驚いたことに、陸王があかねにも甘えるように鼻面をこすりつけてくる。
これには頼久も少なからず驚いた。
馬に慣れている自分ならいざ知らず、これまで馬に接したこともないらしいあかねに、こんなに気難しい馬がなつくとは。
陸王は、あかねが自分の主である頼久の大切な女性であることを理解しているらしい。
頼久は陸王の賢さに感心した。
きっとこの賢さゆえに、今まで誰も傍に寄せ付けなかったのだろう。
ひとたび主を定めたなら、その忠誠はきっと一生涯変わることはないはずだ。
頼久は自分に似ているな、と内心苦笑する。

「きゃあ、くすぐったいよ。」

あかねも笑いながら、じゃれついてくる陸王の鼻先をなでた。

「・・・本当に不思議な方ですね。」
「え? 何が?」

くすくすと笑う頼久に、あかねは首をかしげた。

「・・・陸王も私も、貴女に惹きつけられて止まない、ということですよ。」

頼久があかねの肩を抱く。
あかねはそんな甘い言葉にちょっと恥ずかしくなりながら、嬉しそうに頼久に身を寄せた。

「頼久さん、あの時すごくかっこよかったよ。」
「そうですか?」
「うん。惚れ直しちゃった。」

頼久も少し照れたように微笑みながら、あかねを見つめる。

「頼久さんのこと、信じてました。きっと勝ってくれるって。」
「貴女のためなら、私は絶対に負けません。」
「頼久さん・・・。」
「神子殿・・・。」

周囲の目から守ってくれるように首を下げた陸王の影で、二人は甘い口付けを交わした。





龍神の神子が武士の妻となった、という話題で、今や京の都は沸きかえっていた。
庶民にとっては、神の使いである神子が身分の低い武士の妻となったことが、一大ラブロマンスとして語られている。

「おい、聞いたか。あの武士殿と神子様は元々想い合ってたらしいじゃないか。」
「貴族相手に一歩も引かず、流鏑馬に勝利したなんてすごいよなあ。」
「そうそう、困難を乗り越えて貫いた愛。泣かせるねえ。」
「それにあの武士殿の勇ましいこと! 見たかい?」
「もちろんさ。うちの娘も惚れちまってさあ。私もあの武士殿に情けをかけてもらいたい、なんていう始末さ。」
「ああ、そりゃだめだろうなあ。あの武士殿は、それはそれは奥方になられた神子様を大切になさっているらしいから。」
「結構いいところの姫さんが側室にと申し入れなさっても、頑として聞き入れなさらなかったとのことだよ。」

庶民の心を捉えた二人の話は、その後末永くまで語り継がれていった。





龍神の神子を妻としたおかげか、源氏一族はその後力をつけていくことになる。
龍神の加護を得た源氏が天下を取るのは、もう少し先のこと―――――。






 <前編> <中編>




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浮舟